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20151121

Heatstrings / Serph
原子雲母の危機 / モルゴーア・クァルテット
Everything Will Be Alright In The End / Weather
Pop Pop / Rickie Lee Jones
Nevermind / nirvana
Rickie Lee Jones
Geffen Records

20151118

魚座の世界/魚座

アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督 『バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)』


 「バードマン」という過去の作品による栄光から、レイモンド・カーヴァー原作の劇場公演により再起を期すリーガン。公演初日までの彼をめぐるブロードウェイの劇場の様子がほぼ全編ワンショット長回しと見紛うフィルム。カメラはすれ違う人々をスイッチしながら360度自在なカメラワークで追い続ける。言うまでもなくこのショットは実際にワンショットで撮影されたものでない。リーガンの超能力(?)やバードマンの存在、、また自在な時間の経過の伸縮によってそれが示されている。この形式がこの作品の持つ根本的な主題を明快に印象付けている。
 極度なリアリズム信奉者のマイク、ツイッター時代の元ジャンキーのサム、興行のためにあらゆる虚実の言を使い分けるジェイク、映画嫌いの純粋芸術信仰者のタビサ。あらゆる登場人物にとっての存在とはなにか、真実とは何かの罵詈雑言じみた問いかけのなか、公演は幕を開ける。
 虚実ないまぜという言はこの作品には不釣り合いだ。マイクとサムの行う真実ゲームさながら、その本意も事実も宙づりのまま映画は進行する。あらゆる美しいショットも、感動的なシーケンスもこの緊張感によって鑑賞者にわずかな不信をキープさせる。あるいはフィルムに刻印されたものがすべて真実だとするならば、この映画が提示するその真実はいずれもが盲信できないものである。にもかかわらず、この作品にあらわれる人間たちは滑稽で、シリアスで、目が離せない。それはあたかもどう考えてもフィクションそのものであるスーパーヒーローの苦悩にわたしたちが共鳴するときの、あの宙づりの興奮のようである。
 作品中に何度も繰り返される、リーガンが愛について語る舞台のワンシーン。ここで彼はリアリズム調のセットから(時には滑稽なアクシデントのために)踏み出し、客席に語りかける。その踏み出し方のバリエーションは実に多様で笑ってしまう。最後にタビサが「本物の血を浴びた」として記す「スーパーリアリズム」。いかにもチャチなこの評が、いまだにリアルさを希求するわたしたちに逆説的な釘を刺す。そんなことよりこの妄信と不信にまみれたフィルムが、わたしたちにあたえるスリリングさとは何だろう? 問題は事実ではない。認識でもない。言葉にするのは難しいが、それは不意に飛び立つ鳥にも似ている。

 映画全体に随伴し、躍動感と推進力を与えるドラムが素晴らしい。


原題 : Birdman or The Unexpected Virtue of Ignorance
2014年, DVDにて鑑賞

東京都現代美術館「ここはだれの場所?」

知ること、知ることができないこと、わからないこと。それは芸術に向き合ったとき、直面する心が向きがちないくらかの方向だ。そのいずれに価値があるということではない、それらは肌を共にしてひとつの身体としてそこにある。ヨーガン・レール、岡崎乾二郎、会田家という三者を主軸としたこの企画展は、子どものみならずあらゆる来場者に、こうした美術が訴えかける力を示唆していた。
入り口をわたると、色によって、材質によって、見事に分別されたゴミがある。しかしそれらは今わたしたちが考えられる用途を既に満たさないであろうものであるという点で、ゴミだとわたしたちは認識する。鮮やかなゴミ、それらは次の展示室にわたるとその視界を一挙に揺さぶってくる。ゴミだと思われていた、それはわたしたちがそう分別してきた素材と、それを介して構成される光による空間。鮮やかでかつ落ち着きのあるその部屋が、さっきまでゴミだと思っていたものによって構成されていることに気付くには、そう時間はかからない。そしてすぐさま、この空間を構成するに対してどれほどの時間と手間が費やされてきたのだろうかと言うことにも、気付く。あるモノが生産され、わたしたちの元にながれついてから、それが意識されずゴミになる時間を反語的に照射するようである。
一転して岡崎のディレクションする空間は、そもそも見えない。いや、見られなかったのはわたしが大人だったからなのだが、「この びじゅつかんには、こども(こんかいは小学生と中学生)しか はいれません」と宣言されたこの空間は、明らかに差別的である。しかしこうした差別的な環境はどこにでもある。こどもしか入れないなんてうらやましい、ずるい、と思うとき、わたしたちは同時にこの美術館に入れない、あるいはふだん入ることができないひとのことを思う。今回のこどものための展示の「こども」しか入れない環境は、わたしたちが「わたしたち」と称する大多数が、こどもを含まないことを皮肉にも感じさせる。そして、いや、しかし言うべきなのだろう、この空間は隙だらけである。隙間を覗き見たり、あるいは壁を介する糸電話に耳をよせ、何かとこどもが出会う時間を垣間見たいと思う。その能動性が引き出されているのは、わたしたちがマジョリティであるがゆえにマイノリティの声を聞こうというものではないはずだ。
このふたつの部屋を抜け、より混交的な状況としての作家たちをみることができる。会田家の展示は、メッセージを発することと傾聴することの不可思議さを感じさせる。英語でグローバル化批判をする日本の首相(のふりをした人)はもちろん、幼少期からの構想を知人の協力者とともに記録する(そしてその構想自体が時間を経るごとに広大化し、もはや鑑賞者には追いつけない事態となっている)行為、また教育番組のフォーマットで教育することそれ自体を語ることの不可解な変換。こうした展示物たちの作家がふだん生活をともにしているという事実をあらためて考える。そこにはアーティストだからまともな教育ができない、というようなステレオタイプな文言では片付けようもない、人どうしがいっしょにいることの不可解さとその影響が感じられる。
今回の展覧会は、きわめて人間主義的なものであるともいえるだろう。ヨーガン・レールの生、岡崎のキュレーションに導かれて作品をみる子どもたち、それを踏まえて会田家の展示をみるならば、美術を通してわたしたちが何を知り、何を知ることができないかということが浮き彫りになってくる。そして、その何かを知る知らないを別として、歩みを進めさせてくれるのは、通俗的な規範とは別のものだということも、末尾に置かれた会田寅次郎のスケッチを眺めながら痛感することができる。

深澤孝史『越後妻有民俗泊物館』

 民俗泊物館の拍が泊まるっていう字なんです、と、係の人物が解説してくれる。越後妻有民俗泊物館は、必ずしも美術作品を収蔵する場所ではない。一般の歴史資料館のよう資料を収蔵する場所でもない。一般公募によって集められた民泊研究員が、越後妻有の特徴的な民家に一泊二日のホームステイをし、そこで発見した暮らしぶりの資料を借りたり、あるいは再現したものを収蔵しているのだ。
 収蔵品は多岐に渡る。このあたりではただ一軒になってしまった鯉の養殖池、冬季保存用の野菜の瓶詰、保育園に勤めていたお母さんの娘を描いた絵。研究員たちがそれぞれの視点で収蔵してきたのは、二重の意味で一般的な資料ではない。まずそれは、「隣の家はウチとちょっと違う」というような、ごく素朴なその家庭の独特の生活スタイルや出来事の刻印がみえるものである。人がたくさん来たから使ってないキャンバスを裏返しにしてお盆にするなんていうのは、やはりちょっと笑ってしまう。そしてその生活は、多かれ少なかれこの地域の風土や歴史を反映したものである。そのキャンバスがあることそれ自体が、このお母さんがこの土地で暮らしてきたからこそそこにあるように。
 象徴的な展示品があった。駒返の今朝松さんが、信濃川発電所を定年後に始めたという藁仕事だ。かつて藁工芸と農家の暮らしは一体のものであったが、彼が始めたときには既に、生活と結びついたものではなかった。定年後に、物質的なだけではない豊かさだけではない暮らしを見直そうと始めたという。現在は観光の体験道具やお土産品、しめ縄などを作っており、彼の工芸の歴史はもう20年ともなる。
 外から人がこの町を訪れるとき、その歴史はさも一本の途切れることのない線的な時間のように見えてしまう。しかしその中には絶えず断絶があり、またときにはその断絶を繋ぎなおそうという尽力や、逆に何の気なしに始めてしまった気まぐれがある。現在の暮らしを収蔵するこの泊物館の資料たちは、鑑賞者に距離的にも時間的にも近く、それでいて確実に隔たっているそれぞれの暮らしを見せてくれる。全体を覆うユーモラスな雰囲気は、こうした隔たったわたしたちの暮らしが、それでも今もともにあるということへの信頼感からきている。あらためられた共に生きているということの確信が、研究員たちの民泊のまなざしには宿っており、その視線こそが彼らの研究員としての最大の成果だ。
 ある家庭にあった、夕顔が展示されている。食べる以外にも乾かすとひょうたんになるのだとお父さんが説明してくれたらしいが、お母さんによるとお父さんはそんなこと自分でやったことはないという。しかしお母さんもやったことはないそうで、ではどうしてこの夕顔を乾かす方法をこのひとたちは知っているのだろう。この夕顔はどうなっていくのだろう。案外と歴史はこうして現在に転がり込んでいる。その現在の姿を、わたしたちはこの奇妙なあたりまえの博物の館でみていたのだ。


大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2015出展作品
深澤孝史『越後妻有民俗泊物館』
新潟県十日町市本町 十日町産業文化発信館 いこて2階
2015年7月26日-9月13日
http://homestaymuseum.net/

YUKO OZAWA 『VANISHING POINT』 於:Gallery Barco


 この小さな個展の鑑賞者は、まず一枚の紙に印字された散文に出迎えられる。それは脇に展示されたささやかな作品たちのキャプションのようでもある。それを読み、改めて作品を眺める。テクスト内の現実と鑑賞者が直面する現実は、いくつかの点で相違がある。それぞれの現実は、その相違を保ったまま進行していく。
 テクストによれば「誰もいない部屋」のはずのこの空間の正面には、ひときわ大きな映像作品がある。ピアノを弾く女性を大写しにしている。その後ろにもうひとり女性がいる。彼女はやがてその場を離れていく。ピアノを弾いている女性は、やがて演奏に併せて歌い始める。もうひとりの女性が戻ってくる。彼女は水の入ったコップを持っていて、それを置く。ピアノを弾いていた女性は演奏を止め、それを飲む。この一連の様子を、カメラは捉えている。
 しかし、作品を観た鑑賞者が知っているのはそれだけではない。鑑賞者はコップを持った女がどこへ行っていたのかを推察することができる。映像と同期していた音が、その画面から消えていく女を追従するからだ。聴覚と視覚のカップリングは解消され、音は画面外のもうひとつのイメージへと鑑賞者を誘う。足音、つぶやく声、水の音。断続的に提示されるもうひとつのイメージを経て、鑑賞者の前にあらわれたコップの水は、視覚的に享受したそれとは別の物語を伴っている。
 女の足音が去ったあとに、歌が聞こえ始める。一見するとピアノ奏者が歌っているように思えるその歌も、ここではない別の場所から到来したものなのかもしれない。確定的なアリバイを持てないまま鑑賞者が受け止めるポエジーは、見えているものでも聞こえていることでもなく、その間の不確定な揺らぎにこそある。そしてその揺らぎの中には、また別の現実の可能性が幾重にも想起されていく。

YUKO OZAWA  SOLO EXHIBITION『VANISHING POINT』
Gallery Barco(東京都葛飾区亀有 http://www.g-barco.com/)
2015.9.3 -13
http://pa03040yo.web.fc2.com/xiao_ze_yu_ziYukoOzawa/xiao_ze_yu_zi.html

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