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2019年06月15日のつぶやき

22:36
今日は死ななかったので100点
18:04
数年ぶりに道に迷って民家に聞くの巻
15:35
RT @dojishigeyama: ゴドーを待ちながら令和ver.初日にご来場いただき誠に有難うございました。 この作品に出演させていただいたことを本当に感謝しております。皆様千穐楽までどうか、どうか伏して宜しく御願い申し上げます。
11:08
今継続して読んでいるマンガ201906 https://t.co/Rj7oUXTgld

20190616習う前に慣れるな

この4月から京都府の嘱託職員をやっている。
年度末まで財団職員でかなりめちゃくちゃやっていたので、華麗なる転身である。

前職のときは役所の人との見えかた、価値観、手はずの違いにだいぶやきもきさせられた…いや僕はそんなさせられていないが、定期的にプッツンしている同僚をみていたので、なんというか変な気分ではある。
赴任当初は「はえ〜〜これが公務員の世界観か〜〜〜」と面白がっていたが、2か月が過ぎて、慣れてきた、というか、早速あんまりなんも思わなくなってきた。

いくらなんでも、順応が早すぎると思い、短くてもいいので、できるだけ毎日日記をつけるようにしようと思う。


昨日、地域まわりをしていて、
今後もしや振興のために権利回りを把握しておかねばかも…という店があった。
聞くと、自民党系の議員さんの建物であった。
つまりこの場所を振興していくということは、この議員さんとヨロシクやるということで、その地盤を固めることにつながる。
既得権益がどのようなプロセスを経て強化されていくのか、はじめてはっきりとイメージできた。


習うより慣れよ、という話もあるが、習おうという能動性を置いて慣れていきたくはない。
習えずに苦しみ、悔しくて感情と神経を飼いならし改造していく。
慣れる前も、慣れた後も、まちがいなく自分だと思っていたい。
そういう夢を持って書く日記なら、三日坊主も避けられるだろうか。
それともやっぱり慣れないから続かないかな。




今継続して読んでいるマンガ201906

刊行タイミングがかぶって、「こんなに買えないよ!?」と思ったので、いったん整理の意味も込めて。


・ブルーピリオド/山口つばさ

・ゴールデンカムイ/野田サトル

・銀河英雄伝説/藤崎竜

・呪術廻戦/芥見下々

・チェンソーマン/藤本タツキ

・さよなら私のクラマー/新川直司

・BLUE GIANT SUPREME/石塚真一

・めしにしましょう/小林銅蟲

・サマータイムレンダ/田中靖規

・放課後さいころ倶楽部/中道裕大

・七人のシェイクスピア/ハロルド作石

・波よ聞いてくれ/沙村広明

・王様の仕立て屋〜下町テーラー〜/大河原遁



--最近増えた--
・水は海に向かって流れる/田嶋列島

・児玉まりあ文学集成/三島芳治

・ワンダンス/珈琲



--まとまってくるまで中断--
・おおきく振りかぶって/ひぐちアサ

・ヴィンランド・サガ/幸村誠

・青のフラッグ/KAITO

・CITY/あらゐけいいち

・悪魔のメムメムちゃん/四谷啓太郎




けっこう買っているなと思った。
すべてkindle。継続は15本くらいにまとめておきたいところである。月2〜3冊くらいにしたい。全然でないのもあるけど。

3つ増やしたので、現行で少し終わるまでは増やさないようにしたい(希望)。
銀英伝は順調に進んでいる。さいころ倶楽部も終わりが見えてきた。サマータイムレンダはしばらく止めてたけど、今がぜん面白くなっている。クライマックス近し。王様の仕立て屋は知識が一周した感があるので、しばらく置いてまとめて読んでもいいのかもしれない。

田島列島氏の新作が嬉しすぎる。『のぼる小寺さん』の珈琲氏の新連載はダンス。キャラクターがいい、運動の描写がいい。三島芳治氏は素晴らしいです。中断かと思ったけどトーチに続き載っていたので安心。それにしてもトーチwebは載ってるものが全体的に素晴らしい。パンダ探偵社いつまでも待ってます


20180503 京都国際ダンスワークショップフェスティバル2018のふたつのクリエイション

4月20日に始まった「京都国際ダンスワークショップフェスティバル2018」が、佳境を迎えている。
僕はこれに京都芸術センターの運営側として関わっているので、他の参加者とは少し違った角度でこの全体をみていることになる。元来なら参加者のみなさんが学び、感じ、身体を開拓してそれぞれの現場に持ち帰っていただければそれでよい(つまり僕が言うべきことはなにもない)のだが、少し思うところあって昨日の出来事を簡単にまとめておきたい。

そういう気持ちになった理由は下記のようなものである。数年前から一般社団法人ダンスアンドエンヴァイロメント(以下D&E)と京都芸術センター(以下KAC)の共同主催という枠組みに展開した。これまでのD&Eが身をもって講師と出会い、開拓してきたネットワークを引き継ぎ、ダンサー(つまりスタッフ自身)の学びへの意欲つつも、テーマをより多角的に考えられるようなクラスのラインナップとなるよう、新たな講師を迎え入れつつ共同してプログラミングを進めてきた。
その結果、(少なくとも僕自身がプログラムの会議に参加した)昨年度や今年度については複数のクラスを受講することで、それぞれのワークが響きあい考察すべきトピックが浮かび上がってくる、キュレトリアルな側面を持ったプログラムとなったと感じている。しかし、現実的にはクラスは2もしくは3つが平行しており、フェスティバル全体を包括的に眺めることはできないし、そういう観察の仕方は「ドキュメント・アクション」のスタッフを除いて想定されていない。そのため、ドヤ顔で「いいプログラムだった」と鼻息を荒げていても、そんなことより参加者としては個々のコース、あるいは2つ3つのクラスの合わせ技で発生する濃密な身体感覚の刷新や再知覚のほうがよっぽど重要(これは信頼すべき素敵な講師陣と、熱意を持った参加者のおかげで成立している)だ。プログラムを組み立てる側の自己満足的な構築感が一顧に値するかといわれると、「学びの多そうな機会だ」と興味を持っていただく以外には、とりたてて重要なことでもない、と思うようにしている。なにせこれはダンサーにとっての学びのフェスティバルだからだ。
とはいえ、今年度のクリエイションクラス(チョン・ヨンドゥ、マルセロ・エヴェリン、川口隆夫の各氏)のクラスは、それぞれ別の意味で参入のハードルが高い、ある意味で「閉じた」クラスを形成しつつある。ヨンドゥ氏のクラスはまったくもってダンスの技術的な意味(それから、単に会場が狭いという意味)で。そしてマルセロ、川口両氏のクラスは、その丁重に扱われるべきアイディアの源泉において。それゆえ、これらのクラスを受講するでもなく、雲のように通り過ぎることが可能であるという唯一の立場を得た貴重な体験のなかで僕自身が感じたことを、クラスに迷惑のかからない範囲で少しくらい書き残してもよかろう、と思ったのだ。

5月3日のクラスから、マルセロクラスは一切の見学をお断りすることにした。例外的にマルセロ氏のクリエイションをよく知るかつての共同作業者と、われわれスタッフを除いて。
すべてのクラスについて、各講師には「原則として見学者は受け入れる方針を取りたい。ただし、現実的な状況やあなたのワークを考慮して、お断りすることが望ましいならその時点の判断で見学を断ることもできる」と伝えてあったので、マルセロ氏に一切の非はない。クラスのスタート当初は多少の出入りは許していたが、日を追うごとに参加者のコミュニケーションが繊細さを増しており(少なくとも出入りしている自分にはそのように見えた)、会場のあの重たい鉄のドアが開け閉めされるたびに集中力が削がれ、ナーバスになっているようだった。日ごとに「集中したワークが始まったらドアを閉めてカギをかけてもよい」「見学者は最初に入ってきた人のみ許可」等ガイドラインが増え、中日をあけた今日、ついに前日シャットアウトとなったのだ(とはいうものの、現実的には事務所棟側のドアは内鍵が存在しないので、その気になれば外から中にはいつでも出入りできる)。

この判断をするに際して、僕自身、多少のためらいがあった。昨今の創作現場でのハラスメント防止措置に対して、僕自身のひとつの解答が「常に稽古場をオープンなものとし、外部の目に晒されることを担保する」というものだったからだ。
しかし僕はマルセロ氏の希望を承認した。マルセロ氏は主たる理由に「ワーク中の参加者を見せ物にしたくない。彼らは集中して自分自身を晒している」「それを傍観してメモを取ったりするのは『自分の文化』ではない」という旨のことを言った。僕の英語の理解が若干あやしく変形して理解している部分もあるだろうと思うが、重要な局面は通訳してもらったので大きな誤解はないだろうと信じている。D&Eの森さんの「ドキュメント・スタッフは例外的に可としては?」という折衷案のアイディアも、僕は支持しなかった。それではマルセロ氏の守りたい「文化」も参加者も守れない、意味がない折り合いだと考えたからだ。ドキュメント・スタッフは専門性の高い参加者も中にはいるが、原則として有志によるボランティアの集まりで、繊細な局面でプロフェッショナルな判断を要求できることを全員には求められないという前提もある。
5月1日お昼に開催されたマルセロ氏のトークにおいて、彼はクリエイションの履歴やこれまで遭遇した困難について語ってくれた。いくつかのプロジェクトは政治的なアプローチも含めて大変意義深いものに感じられた。そして、彼が故郷であり現在の拠点の一つとするテレジナの街でいかに苦しみ、そして街を愛しているのかを感じさせるものでもあった。
これをきわめて乱暴に要約すると、ある種のローカルな地域特有の排外性がその街にはあり、その街を巣立ち、都市での正当性や革新的なダンスの考え方を携えて帰ってきたマルセロ氏は、その革新性ゆえ、街に呼ばれたにもかかわらず、結果的にその街に受け入れてもらうことができなかった。しかし彼はその街でダンスの未経験者とともに自分たちの方法を推進し、場をつくり、ブラジルにおけるダンスの重要な現場と目されるまでシーンを興してきた。そんな彼が言う「文化」とは、どのように尊重されるべきだろう。

そんなこんなで、彼が語った昨年のKYOTO EXPERIMENTで発表された『病める舞』という新作のクリエイションでは、創作に関わったすべてのスタッフを舞台に上げることにした、という話も、筋の通ったもののように思われた。まぁ現実には制作者や本番のオペレーター、舞台監督は劇場を回していたので、プランナーや作曲家といった面々まで、ということなのだろうが、「外部である」という関わりの前提を許さぬ彼の態度を表明したものだと考えられるだろう(作品自体がその結果うまくいっていたかと言われると、ちょっと別の意見も出てくるし、彼自身も細々思うところもあったような言い回しもあった気がするが)。今回はこのクリエイションを参照しながら実施するワークショップということになっているので、「見学お断り」になるのは至極当然ななりゆきともいえる。
とはいえ、彼自身がこの「閉じた」環境の中で発揮するエネルギー、リーダーシップ、彼自身のキャリアの長さが、参加者にとっての暴力装置として働く可能性は、当然存在する。現実に彼はパワフルだし、壮齢とはいえ強い肉体を持っている。そしてワークも、人によっては精神的に大変疲労するものもある。彼自身がいかに参加者を尊重し、声を張り上げて各個の判断の自由を鼓舞しても、それが絶対に逆効果にならないとは言えない。参加者にはD&Eのスタッフ、特に中核たる森さんが参加しているので、ある種の危険性が察知された場合の防衛線は依然として存在するが、リスキーな判断であるということには変わりない。
そんな中で、僕はクリエイションを観察し続けるかどうか、今これを書きながら少し悩んでいる。ちなみに昨日までは、僕も見学は止そうと思っていた。僕自身の見学も結局は「外部」を許すということだし、リスクを取るに際しての正当さや誠実さが、マルセロ氏にも参加者にも確保できないと考えたからだ。そしていまだに僕は、彼が「排外的であること」を方法としてチョイスして守ろうとしている精神性について、心の安全やパワーバランス的な公平を理由にして一部介入することにも、いまだに躊躇している。だいたい、ワークショップの展開の中で時間をかけてマルセロ氏は自分の方法を示してきたわけだし、D&Eスタッフもワークに参加しているので、そもそもこれはいらぬ心配だとは思う。彼の愛憎が入り混じった文化的な抵抗の作法は、どんな手を使ってでも守るべきものなんじゃないのか?と思ってもいる。結局今のところは、今日、マルセロ氏と少し話をして決めようと思っている。

そんな5月3日の夜、川口氏によるビギナークラスが開催された。川口氏は今回、『大野一雄について』という作品の創作をベースにしたワークショップを進めており、ビギナークラスもこれを踏襲したものとなっている。この作品は、大野氏の代表的なダンス作品を映像資料で研究し「完コピする」という、聞いただけでも頭がおかしくなりそうなプロットである。言うに及ばず、大野一雄の舞踏はきわめて即興的なものであり、再現性はないに等しい。この振りともつかない振りを「鋳型に熱い鉄を流し込む」ように、コピーし、「形を完全にコピーすれば魂もコピーできる」という仮説に基づき実践するものだ。ビギナークラスでも、きわめて部分的ながらこのワークが踏襲され、参加者はいくつかのポーズを軸に、その振りのコピーを試みた。
参加者への説明において、川口氏は「伝統芸能みたいな感じだけど…」と口にした。限に偉大で乗り越えようもない師の型ともつかない型を踏襲し、自分を無化しようとするその試みは、近代的自我を前提とする「創作」とはまるで異なる精神性による営みであり、まさに「伝統芸能」の生まれをみているようにすら思われる。観阿弥の弟子たちは、あるいは川口氏のような気持ちだったのであろうか。ビギナークラスの最後に少しだけ川口氏が踊った、花を持って歩く大野一雄の「完コピ」は、驚嘆すべきことに、確かに部分的に大野一雄の姿を幻視させ、それゆえにそこにいるのがどうしようもなく川口氏であることを示していた。
この自分であることを追求しない、我を捨てた、極限まで「閉じた」踊りによる達成は、むしろ日本によくある類の信仰であるとも言える。あらゆる武道、伝統芸能はこのような精神性を持って存在しており、それゆえに革新的なアイディアを許しがたい土壌を育ててしまう一因にとなってしまうケースもある。この価値観に対する川口氏のコンセプチュアルな反転の手さばきは見事というほかない。伝統への敬意、即興の不可能性、大野と土方の対比的かつ相補的な踊りの思想をひとつに折り合うところに自分の身体を流し込んでみせる。川口氏はこれにもう数年も取り組んでいたのに、今まで本編の上演を見逃していたことが心から悔やまれる。
しかし、この「反転」そのものが、ある種のコンテンポラリーアート常套手段であるのもまた事実だ。セオリーをひっくり返し、価値観を相対化し、複数の思想に目配せをしてみせる。もはや今では「悪しきポストモダンの幻影」として批判の対象にすらなるこの態度と一線を画し、川口氏の試みに僕が心から賞賛を送りたくなるのは、大野一雄が輝きを放ち、川口氏が継承した「無限の愛」以外なにもないようにも思える。


だとすれば、結局のところ正解は愛だけなのだろうか? 愛のないものは、どうやって踊りはじめればよいのだろう?




言葉と一緒に歩けない20170807

こーどというのでひとしきり妻ともめる。
曰くあるコードが存在するよね感情を起因するような表現には、みたいな話を聞いて、それがポップミュージック的な意味でのコード理論、みたいなところで話をされていたところから持ち出されていたようなのだけれど、「コード???」ときゅうにいわれると、なんのことなのかわからなくなる。妻は丁寧に高い低いでもなく、硬い柔らかいみたいでもなく、、と言ってくれたけれど、僕は、それはわかっているんだけれど、、と思う。
ある感情を誘発するコード。たとえばドミソーみたいなやつが落ち着いて聞かれる、というのは、西洋音楽の歴史が発見したある状況なのだと思うし、「そういう感じがする=落ち着いたかんじがする」というのには異存はない。
でもわたしはそんなはなしがしたかったのではないのよ、と言われて、コードが合っていない、、と思う。正確には、コードはある時点まではあっていたのだけれど、それを分解しだしたときにもう合っていない。
お互い眠くなってしまっている、僕はあるコードが人になにかしらをもたらすからといって、それを濫用する
ことについて、よしと思っていない。それは直観的な気持ちよさからできた言葉を、転回することことについて躊躇しているのだと思う。
「そんなことが言いたかったわけじゃないのに」ということで、お互い落ち込む。
ラ・ラ・ランドを観れば解決するというたぐいのものではないのだ。
腹の言葉で話していたところに、急にこーどという言葉がやってきて、それで何かがつながると思ったことが、とてもあやしく不思議に思われる、それはあなたのしたいことではないし、思うことではない。コードはコードだ、どの意味においても。

作品プランをたくさん見るようになって気付いたこと

春からの仕事で、芸術に関わるいろんな応募を横目に見ることになった。しばらく前は応募する側だったので、なんというか感慨深い。応募するときに「こんな感じでいいのかしら…オロオロ」と思っていた自分にエールを送るつもりで、応募を受け付ける側になって気付いたことを箇条書きにする。

0.応募しないとノーチャンス

1.締切に間に合わないとノーチャンス(という建前)
1−1.締め切りに間に合わなくても事務局では見るには見る(審査員が見るかどうかは、別)
1−1−1.「間に合わなかったらどうしたらいいですかね???」とか電話かけられても、「がんばってください」としか言えない(締切にだってそれなりの理由がある)

2.応募要項にそぐわない、あるいは読んでいないと思われるプランは(事務局の)心象がいちじるしく悪い。それは英語のテストでドイツ語で答案書かれてたらイラっとする(というかそもそも読めない)ように
2−1.応募要項をよく読んで、自分のプランがいかにこの機に正当であるかを訴えてくるプランは、それだけ心象がいいし、内容的にも充実していることが多い
2−2.それでも資料が足りなかったりする場合なんかは、「足りないよ」なんてやさしくも連絡したりもする(しないこともある)

3.整然と文章が書かれているプランはそれだけで説得力がある

4.コネクションがあると強いと思われがちだが、コネがあってもダメなもんはダメ
4−1.コネがある人がなにが強いかというと、情報収集源が発信源に近く、どういうニーズがあるのかに近いところにあることが強い
4−2.言い換えるならば、自分がニーズにそぐうところに応募しないと効率が悪い
4−2−1.コネがあるのは強くない。ファンがいる、もしくはファンにさせると強い

5.ある場所での「新しい!」は別の場所ではまったく平凡であるか、さもなくばそもそも理解されない

6.実直であることは美徳だが、「いいやつだから採ろう」とはならない

7.募集する側の気持ちに立って考えていないプランは心象が悪い

8.どういう封筒を使うか、とかは些末な問題。



20161008

どんな時でも土日に彼らは休みを取る。
筋トレを始めた。

BBC『ジャズ・625』-1963(with ローリンド・アルメイダ)/モダン・ジャズ・カルテット w.ローリンド・アルメイダ
GOTTA-NI/二階堂和美 with Gentle Forest Jazz Band


二階堂和美の期待の裏切らなさ!
二階堂和美 with Gentle Forest Jazz Band
Pヴァイン・レコード

リチャード・シェクナー 高橋雄一郎訳『パフォーマンス研究 演劇と文化人類学の出会うところ』 行動と再現

作品の上演はワークショップ=リハーサルの反転である。公演は初日を迎えると歴史の「現実」になる。(中略)パフォーマンスの枠組みとして目に見える部分は、発見、保持の後に再統一された全体として作り上げられていった、完成作品としてこれからはもうあまり変更を加えられることのない「実在」である。しかしこの「実在」の深層部は「もし、あたかも」の世界である。(中略)上演の日が迫ると、ワークショップ=リハーサルの「もし、あたかも」の領域は意図的に視野の外に沈められる。もしパフォーマンスが満足いくものであれば、観客が目にするのは公演の「実在」の部分だけである。
―p.60

ウイニコットが提唱したのは「私」と「私でないもの」の中間にある精神/身体の状態である。この第三の、二重否定によって成立する中間領域はグレゴリー・ベイトソンが「遊びとファンタジーの理論」(bateson 1972)で展開した「遊びの枠組み」によく似ているし、ターナーのリミナリティの概念にも通じるものがある。
―p.63



20151123

journal / jizue

20151122

第五作品集『無題』 / downy
オレらは肉の歩く朝 / 前野健太
Study in Brown / Clifford Brown
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