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東京都現代美術館「ここはだれの場所?」

知ること、知ることができないこと、わからないこと。それは芸術に向き合ったとき、直面する心が向きがちないくらかの方向だ。そのいずれに価値があるということではない、それらは肌を共にしてひとつの身体としてそこにある。ヨーガン・レール、岡崎乾二郎、会田家という三者を主軸としたこの企画展は、子どものみならずあらゆる来場者に、こうした美術が訴えかける力を示唆していた。
入り口をわたると、色によって、材質によって、見事に分別されたゴミがある。しかしそれらは今わたしたちが考えられる用途を既に満たさないであろうものであるという点で、ゴミだとわたしたちは認識する。鮮やかなゴミ、それらは次の展示室にわたるとその視界を一挙に揺さぶってくる。ゴミだと思われていた、それはわたしたちがそう分別してきた素材と、それを介して構成される光による空間。鮮やかでかつ落ち着きのあるその部屋が、さっきまでゴミだと思っていたものによって構成されていることに気付くには、そう時間はかからない。そしてすぐさま、この空間を構成するに対してどれほどの時間と手間が費やされてきたのだろうかと言うことにも、気付く。あるモノが生産され、わたしたちの元にながれついてから、それが意識されずゴミになる時間を反語的に照射するようである。
一転して岡崎のディレクションする空間は、そもそも見えない。いや、見られなかったのはわたしが大人だったからなのだが、「この びじゅつかんには、こども(こんかいは小学生と中学生)しか はいれません」と宣言されたこの空間は、明らかに差別的である。しかしこうした差別的な環境はどこにでもある。こどもしか入れないなんてうらやましい、ずるい、と思うとき、わたしたちは同時にこの美術館に入れない、あるいはふだん入ることができないひとのことを思う。今回のこどものための展示の「こども」しか入れない環境は、わたしたちが「わたしたち」と称する大多数が、こどもを含まないことを皮肉にも感じさせる。そして、いや、しかし言うべきなのだろう、この空間は隙だらけである。隙間を覗き見たり、あるいは壁を介する糸電話に耳をよせ、何かとこどもが出会う時間を垣間見たいと思う。その能動性が引き出されているのは、わたしたちがマジョリティであるがゆえにマイノリティの声を聞こうというものではないはずだ。
このふたつの部屋を抜け、より混交的な状況としての作家たちをみることができる。会田家の展示は、メッセージを発することと傾聴することの不可思議さを感じさせる。英語でグローバル化批判をする日本の首相(のふりをした人)はもちろん、幼少期からの構想を知人の協力者とともに記録する(そしてその構想自体が時間を経るごとに広大化し、もはや鑑賞者には追いつけない事態となっている)行為、また教育番組のフォーマットで教育することそれ自体を語ることの不可解な変換。こうした展示物たちの作家がふだん生活をともにしているという事実をあらためて考える。そこにはアーティストだからまともな教育ができない、というようなステレオタイプな文言では片付けようもない、人どうしがいっしょにいることの不可解さとその影響が感じられる。
今回の展覧会は、きわめて人間主義的なものであるともいえるだろう。ヨーガン・レールの生、岡崎のキュレーションに導かれて作品をみる子どもたち、それを踏まえて会田家の展示をみるならば、美術を通してわたしたちが何を知り、何を知ることができないかということが浮き彫りになってくる。そして、その何かを知る知らないを別として、歩みを進めさせてくれるのは、通俗的な規範とは別のものだということも、末尾に置かれた会田寅次郎のスケッチを眺めながら痛感することができる。
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