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20180503 京都国際ダンスワークショップフェスティバル2018のふたつのクリエイション

4月20日に始まった「京都国際ダンスワークショップフェスティバル2018」が、佳境を迎えている。
僕はこれに京都芸術センターの運営側として関わっているので、他の参加者とは少し違った角度でこの全体をみていることになる。元来なら参加者のみなさんが学び、感じ、身体を開拓してそれぞれの現場に持ち帰っていただければそれでよい(つまり僕が言うべきことはなにもない)のだが、少し思うところあって昨日の出来事を簡単にまとめておきたい。

そういう気持ちになった理由は下記のようなものである。数年前から一般社団法人ダンスアンドエンヴァイロメント(以下D&E)と京都芸術センター(以下KAC)の共同主催という枠組みに展開した。これまでのD&Eが身をもって講師と出会い、開拓してきたネットワークを引き継ぎ、ダンサー(つまりスタッフ自身)の学びへの意欲つつも、テーマをより多角的に考えられるようなクラスのラインナップとなるよう、新たな講師を迎え入れつつ共同してプログラミングを進めてきた。
その結果、(少なくとも僕自身がプログラムの会議に参加した)昨年度や今年度については複数のクラスを受講することで、それぞれのワークが響きあい考察すべきトピックが浮かび上がってくる、キュレトリアルな側面を持ったプログラムとなったと感じている。しかし、現実的にはクラスは2もしくは3つが平行しており、フェスティバル全体を包括的に眺めることはできないし、そういう観察の仕方は「ドキュメント・アクション」のスタッフを除いて想定されていない。そのため、ドヤ顔で「いいプログラムだった」と鼻息を荒げていても、そんなことより参加者としては個々のコース、あるいは2つ3つのクラスの合わせ技で発生する濃密な身体感覚の刷新や再知覚のほうがよっぽど重要(これは信頼すべき素敵な講師陣と、熱意を持った参加者のおかげで成立している)だ。プログラムを組み立てる側の自己満足的な構築感が一顧に値するかといわれると、「学びの多そうな機会だ」と興味を持っていただく以外には、とりたてて重要なことでもない、と思うようにしている。なにせこれはダンサーにとっての学びのフェスティバルだからだ。
とはいえ、今年度のクリエイションクラス(チョン・ヨンドゥ、マルセロ・エヴェリン、川口隆夫の各氏)のクラスは、それぞれ別の意味で参入のハードルが高い、ある意味で「閉じた」クラスを形成しつつある。ヨンドゥ氏のクラスはまったくもってダンスの技術的な意味(それから、単に会場が狭いという意味)で。そしてマルセロ、川口両氏のクラスは、その丁重に扱われるべきアイディアの源泉において。それゆえ、これらのクラスを受講するでもなく、雲のように通り過ぎることが可能であるという唯一の立場を得た貴重な体験のなかで僕自身が感じたことを、クラスに迷惑のかからない範囲で少しくらい書き残してもよかろう、と思ったのだ。

5月3日のクラスから、マルセロクラスは一切の見学をお断りすることにした。例外的にマルセロ氏のクリエイションをよく知るかつての共同作業者と、われわれスタッフを除いて。
すべてのクラスについて、各講師には「原則として見学者は受け入れる方針を取りたい。ただし、現実的な状況やあなたのワークを考慮して、お断りすることが望ましいならその時点の判断で見学を断ることもできる」と伝えてあったので、マルセロ氏に一切の非はない。クラスのスタート当初は多少の出入りは許していたが、日を追うごとに参加者のコミュニケーションが繊細さを増しており(少なくとも出入りしている自分にはそのように見えた)、会場のあの重たい鉄のドアが開け閉めされるたびに集中力が削がれ、ナーバスになっているようだった。日ごとに「集中したワークが始まったらドアを閉めてカギをかけてもよい」「見学者は最初に入ってきた人のみ許可」等ガイドラインが増え、中日をあけた今日、ついに前日シャットアウトとなったのだ(とはいうものの、現実的には事務所棟側のドアは内鍵が存在しないので、その気になれば外から中にはいつでも出入りできる)。

この判断をするに際して、僕自身、多少のためらいがあった。昨今の創作現場でのハラスメント防止措置に対して、僕自身のひとつの解答が「常に稽古場をオープンなものとし、外部の目に晒されることを担保する」というものだったからだ。
しかし僕はマルセロ氏の希望を承認した。マルセロ氏は主たる理由に「ワーク中の参加者を見せ物にしたくない。彼らは集中して自分自身を晒している」「それを傍観してメモを取ったりするのは『自分の文化』ではない」という旨のことを言った。僕の英語の理解が若干あやしく変形して理解している部分もあるだろうと思うが、重要な局面は通訳してもらったので大きな誤解はないだろうと信じている。D&Eの森さんの「ドキュメント・スタッフは例外的に可としては?」という折衷案のアイディアも、僕は支持しなかった。それではマルセロ氏の守りたい「文化」も参加者も守れない、意味がない折り合いだと考えたからだ。ドキュメント・スタッフは専門性の高い参加者も中にはいるが、原則として有志によるボランティアの集まりで、繊細な局面でプロフェッショナルな判断を要求できることを全員には求められないという前提もある。
5月1日お昼に開催されたマルセロ氏のトークにおいて、彼はクリエイションの履歴やこれまで遭遇した困難について語ってくれた。いくつかのプロジェクトは政治的なアプローチも含めて大変意義深いものに感じられた。そして、彼が故郷であり現在の拠点の一つとするテレジナの街でいかに苦しみ、そして街を愛しているのかを感じさせるものでもあった。
これをきわめて乱暴に要約すると、ある種のローカルな地域特有の排外性がその街にはあり、その街を巣立ち、都市での正当性や革新的なダンスの考え方を携えて帰ってきたマルセロ氏は、その革新性ゆえ、街に呼ばれたにもかかわらず、結果的にその街に受け入れてもらうことができなかった。しかし彼はその街でダンスの未経験者とともに自分たちの方法を推進し、場をつくり、ブラジルにおけるダンスの重要な現場と目されるまでシーンを興してきた。そんな彼が言う「文化」とは、どのように尊重されるべきだろう。

そんなこんなで、彼が語った昨年のKYOTO EXPERIMENTで発表された『病める舞』という新作のクリエイションでは、創作に関わったすべてのスタッフを舞台に上げることにした、という話も、筋の通ったもののように思われた。まぁ現実には制作者や本番のオペレーター、舞台監督は劇場を回していたので、プランナーや作曲家といった面々まで、ということなのだろうが、「外部である」という関わりの前提を許さぬ彼の態度を表明したものだと考えられるだろう(作品自体がその結果うまくいっていたかと言われると、ちょっと別の意見も出てくるし、彼自身も細々思うところもあったような言い回しもあった気がするが)。今回はこのクリエイションを参照しながら実施するワークショップということになっているので、「見学お断り」になるのは至極当然ななりゆきともいえる。
とはいえ、彼自身がこの「閉じた」環境の中で発揮するエネルギー、リーダーシップ、彼自身のキャリアの長さが、参加者にとっての暴力装置として働く可能性は、当然存在する。現実に彼はパワフルだし、壮齢とはいえ強い肉体を持っている。そしてワークも、人によっては精神的に大変疲労するものもある。彼自身がいかに参加者を尊重し、声を張り上げて各個の判断の自由を鼓舞しても、それが絶対に逆効果にならないとは言えない。参加者にはD&Eのスタッフ、特に中核たる森さんが参加しているので、ある種の危険性が察知された場合の防衛線は依然として存在するが、リスキーな判断であるということには変わりない。
そんな中で、僕はクリエイションを観察し続けるかどうか、今これを書きながら少し悩んでいる。ちなみに昨日までは、僕も見学は止そうと思っていた。僕自身の見学も結局は「外部」を許すということだし、リスクを取るに際しての正当さや誠実さが、マルセロ氏にも参加者にも確保できないと考えたからだ。そしていまだに僕は、彼が「排外的であること」を方法としてチョイスして守ろうとしている精神性について、心の安全やパワーバランス的な公平を理由にして一部介入することにも、いまだに躊躇している。だいたい、ワークショップの展開の中で時間をかけてマルセロ氏は自分の方法を示してきたわけだし、D&Eスタッフもワークに参加しているので、そもそもこれはいらぬ心配だとは思う。彼の愛憎が入り混じった文化的な抵抗の作法は、どんな手を使ってでも守るべきものなんじゃないのか?と思ってもいる。結局今のところは、今日、マルセロ氏と少し話をして決めようと思っている。

そんな5月3日の夜、川口氏によるビギナークラスが開催された。川口氏は今回、『大野一雄について』という作品の創作をベースにしたワークショップを進めており、ビギナークラスもこれを踏襲したものとなっている。この作品は、大野氏の代表的なダンス作品を映像資料で研究し「完コピする」という、聞いただけでも頭がおかしくなりそうなプロットである。言うに及ばず、大野一雄の舞踏はきわめて即興的なものであり、再現性はないに等しい。この振りともつかない振りを「鋳型に熱い鉄を流し込む」ように、コピーし、「形を完全にコピーすれば魂もコピーできる」という仮説に基づき実践するものだ。ビギナークラスでも、きわめて部分的ながらこのワークが踏襲され、参加者はいくつかのポーズを軸に、その振りのコピーを試みた。
参加者への説明において、川口氏は「伝統芸能みたいな感じだけど…」と口にした。限に偉大で乗り越えようもない師の型ともつかない型を踏襲し、自分を無化しようとするその試みは、近代的自我を前提とする「創作」とはまるで異なる精神性による営みであり、まさに「伝統芸能」の生まれをみているようにすら思われる。観阿弥の弟子たちは、あるいは川口氏のような気持ちだったのであろうか。ビギナークラスの最後に少しだけ川口氏が踊った、花を持って歩く大野一雄の「完コピ」は、驚嘆すべきことに、確かに部分的に大野一雄の姿を幻視させ、それゆえにそこにいるのがどうしようもなく川口氏であることを示していた。
この自分であることを追求しない、我を捨てた、極限まで「閉じた」踊りによる達成は、むしろ日本によくある類の信仰であるとも言える。あらゆる武道、伝統芸能はこのような精神性を持って存在しており、それゆえに革新的なアイディアを許しがたい土壌を育ててしまう一因にとなってしまうケースもある。この価値観に対する川口氏のコンセプチュアルな反転の手さばきは見事というほかない。伝統への敬意、即興の不可能性、大野と土方の対比的かつ相補的な踊りの思想をひとつに折り合うところに自分の身体を流し込んでみせる。川口氏はこれにもう数年も取り組んでいたのに、今まで本編の上演を見逃していたことが心から悔やまれる。
しかし、この「反転」そのものが、ある種のコンテンポラリーアート常套手段であるのもまた事実だ。セオリーをひっくり返し、価値観を相対化し、複数の思想に目配せをしてみせる。もはや今では「悪しきポストモダンの幻影」として批判の対象にすらなるこの態度と一線を画し、川口氏の試みに僕が心から賞賛を送りたくなるのは、大野一雄が輝きを放ち、川口氏が継承した「無限の愛」以外なにもないようにも思える。


だとすれば、結局のところ正解は愛だけなのだろうか? 愛のないものは、どうやって踊りはじめればよいのだろう?




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